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わかりはじめたマイレボリューション♪
もしや秀吉の九州征伐の足跡を追えばそれが森軍の軌跡♪
二次資料だけど『細川家記』にある豊臣秀吉の九州征伐の記述に林為忠(森忠政陣代)とかが阿蘇氏(肥後のジモティー勢力)の立て籠りしてるとこを成敗しに行ったことが書いてあって、九州の歴史に疎い私は知り合いや熊本市施設に誤爆メールをして問い合わせてみた。阿蘇氏のことに詳しい施設がわからずに、管轄が違うような感じの熊本市の博物館にいきなり誤爆メールしてしまい、
『阿蘇火山博物館に阿蘇氏について教えてくださいと誤爆メールするよりマシよ!(-_-;)」
と自分に言い聞かせて恥ずかしさをやわらげていたけど、熊本市は丁寧に調べて答えてくださった。
『細川家記』にある「阿蘇宮の神主か居所」とは「浜の館」のことではないかとのお答え。周囲の知人のアドバイス通りだ。で、「浜の館」近所の詰めの城には「岩尾城」がある。
こ!ここは、先月の菊池氏関係の史跡めぐりで私が参加できなかった日にみなが訪問していた城じゃないか!みんな、抜け駆けして私よりも先に森家史跡の「浜の館」と「岩尾城」に行けちゃってたなんて、なんてことだ!
出し抜かれた!Σ(゜□゜;と、勝手にジェラシー!!
その時に案内役だった知人に「私も連れてけやい!」とワガママを言って今日、案内してもらって「岩尾城」と「浜の館」の順で行ってきた。(^O^)
岩尾城はなんと通潤橋の真横の小山。そして私たちは通潤橋の放水イベントの直後に到着(^_^;)。
橋の穴からは、チョロチョロと残った水がしたたっていた…。ああ…すごいね、きれいだね。
1時間ほどかけて岩尾城を散策。知人の持っていた縄張り図がどうも今の地理とフィットせずに出丸がわからずに引き揚げてきたけど、岩尾城とは九州らしい素朴な城だった。
◇阿蘇氏の詰めの城「岩尾城」
つづくは浜の館。現在は矢部高校の敷地となっており、見学には5分もかからず。
もっともっと阿蘇氏のことがわかって、森軍と家老の林為忠のことが発掘できればいいな。
◇阿蘇氏の居所「浜の館」
時間に余裕があったので、森家とは関係ない阿蘇氏の家老・甲斐宗運の御船城と小西行長の宇土城・阿蘇氏の宇土城にも行ってきた。
小西行長の宇土城の石垣の綺麗なことといったら…。宇土にうっとりである。
先日の毛利の岩国城の石垣の粗雑さと偉い違いだ。
ちなみにこの石垣は、小西行長作ではなく、後年に領主となった加藤清正が自分の隠居所とする目的で普請したものとか。解説の看板には
「ただこの石垣も見えているのは半分程度で地面の下には、地上の石垣と同じぐらいの高さの石垣が埋まっています。」
とか恐ろしいことが書いてあった。氷山かっ!!!全部掘って!!!
一方、向いの丘にある宇土氏による中世の宇土城は、保存の目的なのか、お堀や土塁がガッツリとコンクリ固めしてあって、転ぶと痛そうだし、少々興ざめ。
熊本県は歴史も美術館でやってます(^^ゞ
まだ図録あるかも知れません。
阿蘇家文書の展覧会のことはご存知Mさんも教えてくださっていたので、このURLには自力で行きついていたのですが、美術館に歴史上の質問を投げてよいものかと、違和感を持ってためらってしまいました…。(^_^;)
>熊本県は歴史も美術館でやってます(^^ゞ
そういうことなのですね…。そうとは知らずいらぬ気を回してしまいました。(^_^;)
阿蘇氏の文献については東大史料編纂所ものなんかを見てみましたが、秀吉の時代のものがなかったように思えます。
図録には何か新しい情報が含まれていれば嬉しいです。
機会をつくって読んでみます。
それにしても、浜の館出土のかわいらしい華南三彩鳥型水注が見てみたいものです。