近況報告
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せっかくの森家ストーキング旅行なのに、天気が雨で残念だ。
朝、夫とともに近江八幡の宿を出て彦根駅でお城仲間さんズ3名と合流し、車に乗せてもらう。
そして目指すは雲雀山。
『信長公記』曰く、
『(1570年、元亀元年)六月廿一日、浅井居城大谷(=小谷)へ取寄り、森三左衛門(可成)、坂井右近、斎藤新五、市橋九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀山へ取上り町を焼き払ふ』
というので私の中で有名な雲雀山である。
浅井攻めで小谷城まで攻める時に信長は虎御前山に陣を張り、一方、森可成らは雲雀山の砦に登って、小谷の町をファイヤー!!!!
小雨の中、雲雀山に登ろうとするも登り道がわからずに地元のお年寄りに声をかけて教えてもらった。
しかし雲雀山に登ると申し上げているのに何度も「小谷のことじゃないの?」「小谷城はこっちじゃないよ。」と確認される。いえ、小谷城ではなく、我らは全員、雲雀山に登りたいのであります!!
登り口は公民館(ひばり山交流会館)横の道だと教わる。
そのお年寄りに
「猿が出るよ。」
と言われるが、万が一、猿が出たらバニャニャ戦法で戦うことにし、森可成も登った雲雀山へ元気に登った。
もしかすると山の中はそのまま藪になっているかとも思ったけど、山道もちゃんとあるし、もともと標高145 mの低山なので10分くらいで難なく登頂できた。(^O^)
しかし、山頂に「雲雀山古墳群」の石碑はあったけど、
「森可成も登った雲雀山砦」
の石碑やステキ看板は一切なし。
何をしているんだ教育委員会は。
山頂には砦らしい遺構のような、違うような、思い込みのような形状はあったけど、その形状が本当に砦の遺構かよく分からないし、森可成らがやってくる前には浅井氏がこの雲雀山に何か手を加えていただろうし、その前に古墳を造るのに古代人が手を加えていただろうし、その前に原始の地球がマグマの海だっただろうし…何が言いたいのかよくわからないが、とりあえずここに森可成がやってきたというだけでシビれておくことにした。
この低っくい雲雀山から、森可成は放火して燃え上がる町を眺めていたのかなぁと思うと胸が熱くなる。
しかし、雲雀山から見る小谷山(小谷山城があった山)は近すぎである。
思いっきり織田軍に横付けされてるのね。
「燃えろよ燃えろよ~♪」
「炎よ燃えろ~♪」
そんな歌を合唱しながら違う道から雲雀山をくだる。
下り坂で、低い木の上に何かがぶら下がっているのが視界に入ったのでふと見上げてみると、そこには信じられないものがいた。
逆さ吊りバンザイになったまま死んで半分ミイラ化している感じの猿
ぎゃあああああ!!!!
見てはいけないものを見てしまい(撮影してないので画像はありません)、女性陣は泣きながら下山。
ああ、戦国の世とは、げに恐ろしきものなり。
次の予定は小谷山城跡に行くはずなのであるが、この頃にはいっそう雨が激しくなり、
「車で待ってるから、君たち行っといで~。」
というお城仲間ズ。
私もこの雨の中の登山はだんだんと面倒くさくなってきて、小谷山城跡の見学はまたの機会に譲り、織田信長が陣を張った虎御前山の見学もまたの機会に譲り、しかしせっかく長浜に来たのだからと山本山城経由で車を走らせてもらった。
山本山城とは、
『上から読んでも山本山城、下から読んでも城山本山』
として私の中でおなじみのあの山本山城である。
阿閉氏の居城である。
森家はあんまし直接関係ないけど、山の形が二等辺三角形なので、登らずともそのシルエットをまた見たくなってきた(以前、姉川古戦場めぐりをした時に見ていたので)。
でも、実際の山本山を見たお城仲間に
「二等辺三角形というから、もっとトガっているかと思ったのに。」
と言われたが、山がそんなに鋭角すぎたら阿閉一族がみんな滑り落ちてしまうじゃないか。
お昼に長浜ちゃんぽんを食べた後は、屋根がある近隣の史跡ということで長浜城歴史博物館に寄ったけど、入館料を出したうえで気づいたのは、館内でやっていたのは画家の特別展だったという罠。絵画が並ぶ~。
ほかには、長浜城の石垣に本来使われていたという石を表で見た。
雨のせいでやる気がなく、どこに行きたいと希望する人もなく車を走らせていると、石田三成が城主だった佐和山城跡のそばにある「佐和山遊園 開館中」に遭遇。お城仲間さんズが「開いてる~!!!」と入っていったので、訳がわからないままついていった。
佐和山遊園の中には謎の建物や石像がいっぱい並んでいる。
石田三成のことはよく分からないが、総合分析するに、ここは石田三成ファンの理想郷なのだろう。
彦根の中心地の「たねや」でみんなでお茶して旅は終わり。
雨に邪魔されてしまったけど、念願の雲雀山に登れてよかった。
お城仲間さんズ、今回もおかげさまでよい旅でした。
どうもありがとうございました。
朝、夫とともに近江八幡の宿を出て彦根駅でお城仲間さんズ3名と合流し、車に乗せてもらう。
そして目指すは雲雀山。
『信長公記』曰く、
『(1570年、元亀元年)六月廿一日、浅井居城大谷(=小谷)へ取寄り、森三左衛門(可成)、坂井右近、斎藤新五、市橋九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀山へ取上り町を焼き払ふ』
というので私の中で有名な雲雀山である。
浅井攻めで小谷城まで攻める時に信長は虎御前山に陣を張り、一方、森可成らは雲雀山の砦に登って、小谷の町をファイヤー!!!!
小雨の中、雲雀山に登ろうとするも登り道がわからずに地元のお年寄りに声をかけて教えてもらった。
しかし雲雀山に登ると申し上げているのに何度も「小谷のことじゃないの?」「小谷城はこっちじゃないよ。」と確認される。いえ、小谷城ではなく、我らは全員、雲雀山に登りたいのであります!!
登り口は公民館(ひばり山交流会館)横の道だと教わる。
そのお年寄りに
「猿が出るよ。」
と言われるが、万が一、猿が出たらバニャニャ戦法で戦うことにし、森可成も登った雲雀山へ元気に登った。
もしかすると山の中はそのまま藪になっているかとも思ったけど、山道もちゃんとあるし、もともと標高145 mの低山なので10分くらいで難なく登頂できた。(^O^)
雲雀山 森可成も登った愛と野望の雲雀山 |
雲雀山山頂 石碑には「雲雀山古墳群」 |
雲雀山から浅井氏の小谷城をチラ見 |
しかし、山頂に「雲雀山古墳群」の石碑はあったけど、
「森可成も登った雲雀山砦」
の石碑やステキ看板は一切なし。
何をしているんだ教育委員会は。
山頂には砦らしい遺構のような、違うような、思い込みのような形状はあったけど、その形状が本当に砦の遺構かよく分からないし、森可成らがやってくる前には浅井氏がこの雲雀山に何か手を加えていただろうし、その前に古墳を造るのに古代人が手を加えていただろうし、その前に原始の地球がマグマの海だっただろうし…何が言いたいのかよくわからないが、とりあえずここに森可成がやってきたというだけでシビれておくことにした。
この低っくい雲雀山から、森可成は放火して燃え上がる町を眺めていたのかなぁと思うと胸が熱くなる。
しかし、雲雀山から見る小谷山(小谷山城があった山)は近すぎである。
思いっきり織田軍に横付けされてるのね。
「燃えろよ燃えろよ~♪」
「炎よ燃えろ~♪」
そんな歌を合唱しながら違う道から雲雀山をくだる。
下り坂で、低い木の上に何かがぶら下がっているのが視界に入ったのでふと見上げてみると、そこには信じられないものがいた。
逆さ吊りバンザイになったまま死んで半分ミイラ化している感じの猿
見てはいけないものを見てしまい(撮影してないので画像はありません)、女性陣は泣きながら下山。
ああ、戦国の世とは、げに恐ろしきものなり。
次の予定は小谷山城跡に行くはずなのであるが、この頃にはいっそう雨が激しくなり、
「車で待ってるから、君たち行っといで~。」
というお城仲間ズ。
私もこの雨の中の登山はだんだんと面倒くさくなってきて、小谷山城跡の見学はまたの機会に譲り、織田信長が陣を張った虎御前山の見学もまたの機会に譲り、しかしせっかく長浜に来たのだからと山本山城経由で車を走らせてもらった。
山本山城とは、
『上から読んでも山本山城、下から読んでも城山本山』
として私の中でおなじみのあの山本山城である。
阿閉氏の居城である。
森家はあんまし直接関係ないけど、山の形が二等辺三角形なので、登らずともそのシルエットをまた見たくなってきた(以前、姉川古戦場めぐりをした時に見ていたので)。
山本山城跡のある山(画像の一番奥にある山) |
でも、実際の山本山を見たお城仲間に
「二等辺三角形というから、もっとトガっているかと思ったのに。」
と言われたが、山がそんなに鋭角すぎたら阿閉一族がみんな滑り落ちてしまうじゃないか。
お昼に長浜ちゃんぽんを食べた後は、屋根がある近隣の史跡ということで長浜城歴史博物館に寄ったけど、入館料を出したうえで気づいたのは、館内でやっていたのは画家の特別展だったという罠。絵画が並ぶ~。
ほかには、長浜城の石垣に本来使われていたという石を表で見た。
長浜城歴史資料館と今どき石垣 |
長浜城跡 本来の長浜城石垣だった石もこの辺の整備でリサイクルされているらしい。 |
雨のせいでやる気がなく、どこに行きたいと希望する人もなく車を走らせていると、石田三成が城主だった佐和山城跡のそばにある「佐和山遊園 開館中」に遭遇。お城仲間さんズが「開いてる~!!!」と入っていったので、訳がわからないままついていった。
佐和山遊園の中には謎の建物や石像がいっぱい並んでいる。
佐和山遊園 公益財団・佐和山三成会 |
佐和山城 よかったよかった |
石田三成創建の寺 瑞岳寺本堂(という想像) ピカピカ!! |
佐和山城(という想像)と石田三成セメント像に女性像 佐和山城跡内は土の地面であり、三成像はセメントに銅像カラーを着色しており、で、この女誰よ?! |
こんな顔 凹んでる。 |
石田三成のことはよく分からないが、総合分析するに、ここは石田三成ファンの理想郷なのだろう。
彦根の中心地の「たねや」でみんなでお茶して旅は終わり。
雨に邪魔されてしまったけど、念願の雲雀山に登れてよかった。
お城仲間さんズ、今回もおかげさまでよい旅でした。
どうもありがとうございました。
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