近況報告
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本日の日程(森家に関係あるステキ史跡は太字)
村上義清公墓所→葛尾城→鼠宿→上田城→真田氏居館跡→長谷寺(真田昌幸墓)→小諸城→龍岡城→高遠城→名古屋→夜行バス
本日、旅の最終日。
朝イチでお城好きさんズ2名と一緒に葛尾城に向かう。標高805mのところにある山城だ。真田の押さえに森忠政がこの城に兵を置いていたというので登ってみることにしたのだ。
福岡のお城好きさんのリクエストで元・葛尾城主の村上義清の墓参りもしてから林道を使って葛尾城へ向かって車を走らせる。林道は5キロほどの長くて狭くて石のゴロゴロした横がガケの不安な道のり。長野のお城好きさんの運転する車の底にガコン!と石の打ちつける音がするたびに、後部座席で手に汗握る私は「(私が行きたいと言ったばかりに)すみません!!」と言葉が出そうになる。
ようやくたどりついた葛尾城。石垣もあり、すごすぎて画デジカメを持つ手も震える険しい堀切あり、切岸あり、本丸あり、村上義清の旗あり。そういう山頂のさまざまな技巧よりもそもそも高度が高すぎて実に攻める気の失せそうな城であった。
続いて、森忠政も参戦した徳川秀忠の上田城攻めの舞台へ向かう。
森忠政が関ケ原の後に真田の上田城を見張って軍を出していた「鼠宿」の地を通過して(車で走っている時に「鼠橋」という橋を見つけて偶然この地がそうだと気付いた)、上田城へ。
上田城ではちょうど桜祭りをやっていて人が多かった。しかし、桜は咲いていないのであった。(^_^;)
上田城散策の後、真田氏居館跡を訪問し、長谷寺(真田昌幸のお墓参り)を経て、お次は小諸城に移動。
徳川秀忠は関ケ原に向かう時に、上田の押さえとして森忠政を小諸城に残してきた。それを命じられた忠政は大ショックだったろう。
置いてけぼりになった忠政は天下分け目の関ケ原にも行けずに他の大名達に後れを取るのが心配で心配でたまらなかったうようで、秀忠が「父上にもちゃんと説明しておくので絶対に大丈夫だから。」と言わせるほどにしつこく不安を訴える書状を出している。
小諸城に「穴城」と書いてあったので、また地下壕みたいな体験をするのかとすさまじく期待したが、穴城というのは、「小諸城はお城が城下町より低い場所にあるから。」という、ことだった。ちぇ。
城内の空掘は二度と這いあがれないほど深い絶壁ぶりで、忠政の悔しさがこだましそうだった。
その後、日本に2つだけある五稜郭のうちの1つ、龍岡五稜郭を見学。しかし、画像では縄張りのお星様ぶりがわかりづらいかも。
夜行バス出発までの時間があるが、そこから賭けに近い状態で「高遠城に行こう!」と車を走らせてもらう。わざと車のいない道を選んで白樺高原と杖突峠を爽快に走り、山越えの連続で高遠城へ着くことができた。停めてもらった駐車場(700円)が、「森軍三千」ののぼりの立つ場所!!織田信忠を総大将とした信州攻めの折に森長可が攻めこんできた場所と言いたいのだと推定。本当かよく分からないが、やぽー!(^O^)/
高遠城はさくらまつりがあっていた。でも、桜は咲いていないのであった。なのに、さくらまつり期間は入城料はいただきますとのこと。
桜の花もないのにお金を払いたがる人がいないようで、入口から見る城内はガラガラだった。
「お金がいるなら、今度でいい。」とお城好きさんも言うので100名城スタンプだけもらって、中には入らなかった。何のための山越え走行劇だったのだろう。(^_^;)
長野のお城好きさんが親切に岐阜県の中津川駅まで送ってくださり、ドライブスルーで買ったハンバーガーを列車で食べながら名古屋へ向かう。そうして無事に夜行バスに乗ったのだった。
やはり地元の方が一緒だと、ジモティーじゃないと知らない事も判り、旅程もスムーズで心強い。
ありがたい日々だった。(^O^)/
と、言う訳でこのたびも無事に森家の旅を終えたのだった。
よくよく見直すと、森忠政、真田にからみまくってるじゃないか。
村上義清公墓所→葛尾城→鼠宿→上田城→真田氏居館跡→長谷寺(真田昌幸墓)→小諸城→龍岡城→高遠城→名古屋→夜行バス
本日、旅の最終日。
朝イチでお城好きさんズ2名と一緒に葛尾城に向かう。標高805mのところにある山城だ。真田の押さえに森忠政がこの城に兵を置いていたというので登ってみることにしたのだ。
葛尾城のある山 山の左側の尾根の平たいのが姫城、次の頂きにあるのが葛尾城。 |
福岡のお城好きさんのリクエストで元・葛尾城主の村上義清の墓参りもしてから林道を使って葛尾城へ向かって車を走らせる。林道は5キロほどの長くて狭くて石のゴロゴロした横がガケの不安な道のり。長野のお城好きさんの運転する車の底にガコン!と石の打ちつける音がするたびに、後部座席で手に汗握る私は「(私が行きたいと言ったばかりに)すみません!!」と言葉が出そうになる。
ようやくたどりついた葛尾城。石垣もあり、すごすぎて画デジカメを持つ手も震える険しい堀切あり、切岸あり、本丸あり、村上義清の旗あり。そういう山頂のさまざまな技巧よりもそもそも高度が高すぎて実に攻める気の失せそうな城であった。
葛尾城の石積み | 葛尾城の主郭 |
続いて、森忠政も参戦した徳川秀忠の上田城攻めの舞台へ向かう。
森忠政が関ケ原の後に真田の上田城を見張って軍を出していた「鼠宿」の地を通過して(車で走っている時に「鼠橋」という橋を見つけて偶然この地がそうだと気付いた)、上田城へ。
上田城ではちょうど桜祭りをやっていて人が多かった。しかし、桜は咲いていないのであった。(^_^;)
上田城 撮影には桜が邪魔かも(^_^;)。 |
上田城散策の後、真田氏居館跡を訪問し、長谷寺(真田昌幸のお墓参り)を経て、お次は小諸城に移動。
徳川秀忠は関ケ原に向かう時に、上田の押さえとして森忠政を小諸城に残してきた。それを命じられた忠政は大ショックだったろう。
置いてけぼりになった忠政は天下分け目の関ケ原にも行けずに他の大名達に後れを取るのが心配で心配でたまらなかったうようで、秀忠が「父上にもちゃんと説明しておくので絶対に大丈夫だから。」と言わせるほどにしつこく不安を訴える書状を出している。
小諸城に「穴城」と書いてあったので、また地下壕みたいな体験をするのかとすさまじく期待したが、穴城というのは、「小諸城はお城が城下町より低い場所にあるから。」という、ことだった。ちぇ。
城内の空掘は二度と這いあがれないほど深い絶壁ぶりで、忠政の悔しさがこだましそうだった。
小諸城の看板「仙石秀久が築いた穴城」 でも、穴はあいていなかった。 |
小諸城大手門 |
その後、日本に2つだけある五稜郭のうちの1つ、龍岡五稜郭を見学。しかし、画像では縄張りのお星様ぶりがわかりづらいかも。
龍岡五稜郭 お星様の先っぽ部分。 |
夜行バス出発までの時間があるが、そこから賭けに近い状態で「高遠城に行こう!」と車を走らせてもらう。わざと車のいない道を選んで白樺高原と杖突峠を爽快に走り、山越えの連続で高遠城へ着くことができた。停めてもらった駐車場(700円)が、「森軍三千」ののぼりの立つ場所!!織田信忠を総大将とした信州攻めの折に森長可が攻めこんできた場所と言いたいのだと推定。本当かよく分からないが、やぽー!(^O^)/
高遠城はさくらまつりがあっていた。でも、桜は咲いていないのであった。なのに、さくらまつり期間は入城料はいただきますとのこと。
桜の花もないのにお金を払いたがる人がいないようで、入口から見る城内はガラガラだった。
「お金がいるなら、今度でいい。」とお城好きさんも言うので100名城スタンプだけもらって、中には入らなかった。何のための山越え走行劇だったのだろう。(^_^;)
高遠城有料駐車場 のぼりには「森軍三千」とある。 |
高遠城の空堀 有料期間だったので城内には入らず、周囲の空堀だけ満喫。 |
長野のお城好きさんが親切に岐阜県の中津川駅まで送ってくださり、ドライブスルーで買ったハンバーガーを列車で食べながら名古屋へ向かう。そうして無事に夜行バスに乗ったのだった。
やはり地元の方が一緒だと、ジモティーじゃないと知らない事も判り、旅程もスムーズで心強い。
ありがたい日々だった。(^O^)/
と、言う訳でこのたびも無事に森家の旅を終えたのだった。
よくよく見直すと、森忠政、真田にからみまくってるじゃないか。
信州の美しき山々 |
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