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本日の日程(森家に関係あるのは太字で表現)
牧ノ島城→川中島古戦場→典厩寺→山本勘助の墓→槍研ぎの池→供養塔→鳥打峠→松代城→真田宝物館→松代象山地下壕→荒砥城→板垣信方墓→丸子城→伊勢崎城→真田氏発祥の地→信綱禅寺→信綱禅寺歴史の丘→真田氏本城跡→真田幸村公像
やっぱり長くなるので詳細は別に旅行記を書くことにして、この日記ではザーッと行きます。
松本の宿で朝を迎え、早朝6:30より行動開始。
長野のお城仲間さんが車に乗せてくださり、一路、北上!
朝はあいにくの雨模様ながらも、それゆえに長野の山々の霧がかる様が美しい。
朝一番は、森家が信州に入って家臣を置いた牧之島城へ。
そもそもは武田信玄が馬場信房に築かせた城で、特徴的な三日月堀と丸馬出が迎えてくれる。堀切や土塁も残っていて、朝から「城を見た~」感を満喫。
牧之島城の三日月堀 |
今回、初めて長野を訪問する福岡のお城仲間さんのリクエストで武田・真田関係も回ることになっている。
よって八幡原古戦場で松代名物おじさん達が戦う姿をウォッチ。
信玄と謙信の一騎打ち 信玄:「これ、飲み代の請求書です。」 謙信:「ビール1本で6万円も払えるかぁ!」 |
川中島の戦いで戦死した武田信繁の菩提を弔う典厩寺にもお参り。PR看板の激しい山本勘助の墓参りをして、ようやく森家史跡に返り咲く。
訪問したのは森忠政の関係する槍研ぎの池と鳥打峠(刑場跡含む)。
森忠政が川中島を領していた時分、その圧政に反抗した百姓ら300余りの人々(出典によって人数がバラバラ)を鳥打山より寺尾のはずれまでにおいて磔にかけたという場所と、その時に忠政が使っていた槍を研いだという池だ。
その槍研ぎの池は今は田畑と化して跡形もなく、看板も何もなかった。
鳥打峠の入り口には、供養碑も兼ねた道しるべがあってこの石があるところが松代藩時代の刑場があったあたりと教わった。森忠政以前からここは刑場であったそうだ。
槍研ぎの池があった場所 畑になってたなう。 |
鳥打峠に至る道と供養塔(左の石) 忠政以前から松代藩時代まで刑場だった場所。 |
そしていよいよ森長可・森忠政も城主だった松代城へ。
曇りで遠くの雪山が見えないのが残念ながら、訪問できて嬉しい限り。
松代城 海津城を忠政が「待城」と改めて今の「松代」の元になった。 |
続いて、また森家に関係ない松代象山地下壕に行った。これは私のリクエスト。
太平洋戦争末期に本土決戦最後の拠点として大本営を松代に移す計画で極秘に掘られた地下壕で、山の中を碁盤のように掘り抜いていて、現在はその一部を見る事ができ、ヘルメットをかぶって中に入った。地下壕は閉所恐怖症の人にはたまらない場所だろうな。小学生の「戦争はいけないと思いました。」という感想文も捧げられていたが、それ以前に地下壕のすごさに圧倒される。
松代象山地下壕 コウモリにも遭遇した。 |
その後、また森家に直接関係ない荒砥城を見学。
ここは戦国風味の櫓などの様子が再現され、大河『江』のロケにも使われたものらしい。
その後、迷いながら板垣信方墓をお参り。
荒砥城 戦国ぐるぐる |
板垣信方墓 墓よりでかい賽銭箱が何気に気になる。 |
そして再び森家史跡にカムバーック!!
『森家先代実録』の森忠政の部分にも載っているので行きたかった真田の城を2城続けて登った。丸子城と伊勢崎城だ。
真田の丸子城 真田VS徳川軍の丸子表の戦いの舞台。二の郭から主郭へ至る道を見下ろす。 |
伊勢崎城 ここも真田の支城で画像が主郭あたりのはずだけど、看板も石碑も見当たらなかった。 |
そして再び森家じゃない史跡を見て回る。画像はるの疲れたのでもういいや。
真田氏発祥の地→信綱禅寺→信綱禅寺歴史の丘→真田氏本城跡。
夕食にはしゃぶしゃぶ食べ放題で肉を食べまくり、明日の最終日への活力を養う。
なにせ明日は朝早くから90分かけて山城・葛尾城跡に登るのだ。と、いうことで明日の詳細を再チェックしていて、葛尾城の山頂付近まで車で行ける林道発見。
「じゃ、車で行こう。」と、あっさり明日の日程が楽になる。
本日最後は、夜の上田駅前に行き、真田幸村公像を高感度で激写。
上田駅の真田幸村の銅像 背後には時計つきの便利な軍旗 |