近況報告
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古代城に行きたいという知人を今日は「 基肄城跡」に乗せていった。
車を停める場所にあった古代の水門がすごかった。
思えばここが私にとっては、城内のメインの見どころであった。
今日もまた森家は関係のない古代の城だ。
水門跡:今でも水が流れている。
結局は、今日も山全体を何時間も徘徊してまわり、「やっぱり、こっちに何かあるはずだ。」と史跡めぐりコースが終わって土塁をなぞってみたり、「これも礎石だ。」とかで礎石群から建物の規模と軒数を類推してみたり、やっと山頂にたどり着いたらますます太陽に体力を奪われて干物になった…。
基肄城跡山頂。
私が一番楽しみにしていた下り道のタマタマ石(地図に書いてあった。)も、何のことだかよく分からなかったのだが、基肄城跡を見終えてから、再び水門まで下りてきた。ちょっと離れた場所にある古代の「とうれぎ土塁」も見に行った。
今日は、山一つでもたいそうな運動量だった。
しかし、昨日から疲れ過ぎて感覚がマヒしているのか、もうひと山くらい大丈夫だろう、と、近くの勝尾城跡まで行ってしまった。思えば、私が車の中で「筑紫広門ん家~♪」とか、「ここは広門のふるさと~♪」と、連呼していたのがいけなかった。
知人が「広門の城はどこにあるの?」
と尋ねたので、登ったこともない勝尾城へ行ってしまった。
広門のことだから田んぼの中にあるようなショボイ城かと思えば、結構な総構の城でショックだった。
勝尾城は…なぜか本格的な山城だった。
しかも、『中腹くらいまでは車で楽々に登れるのではないか。』という淡い期待を裏切られて、山の麓の居館跡からガッツリと登山することになった。
その前に行った勝尾城の支城の葛籠城跡は楽だし、何よりも空堀がすごかった。
しかし、堀りたい放題に空堀を掘りまくって、主郭にも「これでもかぁ!」と言わんばかりにぐるんぐるんに空堀を掘りめぐらして、やっぱり筑紫広門チックなのであった。あの人のことだから、自分でも落ちたことあるんじゃないのか。
帰りは空堀の底を歩いて帰った。
画像:葛籠城跡の空堀の底
続いて、メインの勝尾城に登った。
麓の看板には、「城山山頂まで徒歩50分」と書いてある。
『なんでこんなことになってしまったのだろう…。』と思いつつ、どうでもいい筑紫広門の城へ登る。
山中は急勾配が多いのに、せせこましいV字の溝に収まりの悪い石がゴロゴロしている危険な路だった。それを40分かけて登った。城の遺構をチェックしていた時間も入れれば1時間以上はかかったかもしれないけど。山全体、城の領域の平地に行きつくまでは、すべてがまさに心臓破りの坂。タオルでふいてもふいても汗が出てきてとまらなかった。
これを登って行って落城せしめた島津軍はどんだけ元気バクハツなんだ。
逆にバカじゃないのかと思ってしまった。
もう、キツイと思うと大野城と基肄城跡を登った疲れもまた押し寄せてきた。
なんというか、森家の関係ない筑紫広門の城で倒れてたまるかという自尊心だけが私を支えていた。
石垣や縄張りに感心した知人が「なかなかやるじゃないか、広門。」
と言うけど、美濃の石垣ガッチリの城に慣れたせいか、佐賀の勝尾城の「石垣」と名のつく遺構を見ても、石積みにしか見えなかったりした。それどころか、『私一人でもこれくらいなら造れるなー。』とかまで思ったりした。
造らないけどね。
これは城内で最もでかい石垣だった。
山頂、いわゆる本丸まできて、もうバテあがっていた。
なのに、山頂には先客がいて、それが小学生にもなっていないような女の子で(保護者もいたよ)、聞けば女の子もあの道を自分の足で登ってきたという。しかも、リュックをしょっている。
Σ(゜□゜;
「下りもがんばってね。」と私が女の子に声をかけると、ケロッとした顔で、『ウン。』とうなづいた。
え…徒歩40分の斜面に疲れる私が体力ないだけかな。何かすごいショック。
日が落ちる前に山を降りなきゃならんので、とっとと下ったものの、やはり足元が悪くて気が抜けないし、膝にくるので下りも結構、しんどかった。
もう二度と来ることもないであろう。
ところで、私は、筑紫広門のことは、あまりよく知らない。
山から下りてみんな「お腹すいたー。」ということで
ガストのはみ出すステーキを食べに行った。
運転手の私以外は冷たいビールで「プハー」してた。
車を停める場所にあった古代の水門がすごかった。
思えばここが私にとっては、城内のメインの見どころであった。
今日もまた森家は関係のない古代の城だ。
水門跡:今でも水が流れている。
結局は、今日も山全体を何時間も徘徊してまわり、「やっぱり、こっちに何かあるはずだ。」と史跡めぐりコースが終わって土塁をなぞってみたり、「これも礎石だ。」とかで礎石群から建物の規模と軒数を類推してみたり、やっと山頂にたどり着いたらますます太陽に体力を奪われて干物になった…。
基肄城跡山頂。
私が一番楽しみにしていた下り道のタマタマ石(地図に書いてあった。)も、何のことだかよく分からなかったのだが、基肄城跡を見終えてから、再び水門まで下りてきた。ちょっと離れた場所にある古代の「とうれぎ土塁」も見に行った。
今日は、山一つでもたいそうな運動量だった。
しかし、昨日から疲れ過ぎて感覚がマヒしているのか、もうひと山くらい大丈夫だろう、と、近くの勝尾城跡まで行ってしまった。思えば、私が車の中で「筑紫広門ん家~♪」とか、「ここは広門のふるさと~♪」と、連呼していたのがいけなかった。
知人が「広門の城はどこにあるの?」
と尋ねたので、登ったこともない勝尾城へ行ってしまった。
広門のことだから田んぼの中にあるようなショボイ城かと思えば、結構な総構の城でショックだった。
勝尾城は…なぜか本格的な山城だった。
しかも、『中腹くらいまでは車で楽々に登れるのではないか。』という淡い期待を裏切られて、山の麓の居館跡からガッツリと登山することになった。
その前に行った勝尾城の支城の葛籠城跡は楽だし、何よりも空堀がすごかった。
しかし、堀りたい放題に空堀を掘りまくって、主郭にも「これでもかぁ!」と言わんばかりにぐるんぐるんに空堀を掘りめぐらして、やっぱり筑紫広門チックなのであった。あの人のことだから、自分でも落ちたことあるんじゃないのか。
帰りは空堀の底を歩いて帰った。
画像:葛籠城跡の空堀の底
続いて、メインの勝尾城に登った。
麓の看板には、「城山山頂まで徒歩50分」と書いてある。
『なんでこんなことになってしまったのだろう…。』と思いつつ、どうでもいい筑紫広門の城へ登る。
山中は急勾配が多いのに、せせこましいV字の溝に収まりの悪い石がゴロゴロしている危険な路だった。それを40分かけて登った。城の遺構をチェックしていた時間も入れれば1時間以上はかかったかもしれないけど。山全体、城の領域の平地に行きつくまでは、すべてがまさに心臓破りの坂。タオルでふいてもふいても汗が出てきてとまらなかった。
これを登って行って落城せしめた島津軍はどんだけ元気バクハツなんだ。
逆にバカじゃないのかと思ってしまった。
もう、キツイと思うと大野城と基肄城跡を登った疲れもまた押し寄せてきた。
なんというか、森家の関係ない筑紫広門の城で倒れてたまるかという自尊心だけが私を支えていた。
石垣や縄張りに感心した知人が「なかなかやるじゃないか、広門。」
と言うけど、美濃の石垣ガッチリの城に慣れたせいか、佐賀の勝尾城の「石垣」と名のつく遺構を見ても、石積みにしか見えなかったりした。それどころか、『私一人でもこれくらいなら造れるなー。』とかまで思ったりした。
造らないけどね。
これは城内で最もでかい石垣だった。
山頂、いわゆる本丸まできて、もうバテあがっていた。
なのに、山頂には先客がいて、それが小学生にもなっていないような女の子で(保護者もいたよ)、聞けば女の子もあの道を自分の足で登ってきたという。しかも、リュックをしょっている。
Σ(゜□゜;
「下りもがんばってね。」と私が女の子に声をかけると、ケロッとした顔で、『ウン。』とうなづいた。
え…徒歩40分の斜面に疲れる私が体力ないだけかな。何かすごいショック。
日が落ちる前に山を降りなきゃならんので、とっとと下ったものの、やはり足元が悪くて気が抜けないし、膝にくるので下りも結構、しんどかった。
もう二度と来ることもないであろう。
ところで、私は、筑紫広門のことは、あまりよく知らない。
山から下りてみんな「お腹すいたー。」ということで
ガストのはみ出すステーキを食べに行った。
運転手の私以外は冷たいビールで「プハー」してた。
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» 勝尾城ですか。
筑紫家度80%の私、勝尾城は図面採りましたよ(^^ゞ
岐阜の城を見慣れたら、勝尾城ではショボくみえるでしょう。でも戦国九州ではトップクラスなんですけど。
ちなみに途中まで林道が走っていて中腹から登れます。言っていただければご教示しましたものを(^^ゞ。
岐阜の城を見慣れたら、勝尾城ではショボくみえるでしょう。でも戦国九州ではトップクラスなんですけど。
ちなみに途中まで林道が走っていて中腹から登れます。言っていただければご教示しましたものを(^^ゞ。