近況報告
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なんだか痛いと思ったら、iPhoneを背中に敷いて寝ていた。
昨夜、新婚旅行から帰ってきた。
会社には今日まで特別休暇をもらっているので、私はあと一日のんびりできる。
さすがに長旅に疲れていたので、昨夜は布団に入ったらIphoneをお腹に乗せたまますぐに眠りについてしまった。
滅多に手に入らぬ本日の平日のフリーダムである。
まだ郵便局の通帳や振替口座などを名義変更していなかったので、今日一日でやるしかないと郵便局に行ってきた。
郵便局の入り口にATMがあったので、
「もう残高もたいして残ってないし、これで全額引き出しちゃおうか。」
と、いじっていたら暗証番号を3回間違えて使えなくなってしまった…。Σ(゜□゜;
おかしい、暗証番号を間違えるはずないのに!!!!
何かがおかしい!!陰謀が渦巻いている!!!
一方、振替口座については窓口に行って手続きするしかなく、
「この口座を新姓に名義変更して、振りこまれたお金を全額払い戻したいんですが。」と、
書類を見せたら、受付の女性は、どうすればいいのか分からないようで
「確認しますのでお待ちください。」
と書類を持って奥の部屋に入って行ってしまった。
…待つこと10分
受付の女性はなにか書籍を持ってきてペラペラめくって私の前で調べ始めたのに、また奥の部屋に行ってしまった。
…待つこと15-20分
受付の女性は電話の子機を首に挟んで話をしながら私の待つカウンターに戻ってきて、そしてまたグルリと奥の部屋に行ってしまった。
Σ(゜□゜;待たされすぎる!!!
と、こちらも気をもんでいた時に、ふと頭をよぎったこと。
『あ…。新姓のハンコ忘れた。』
やばい、あの女性が調べ終わって結論を持ってきても、私がハンコ忘れたのでもしかすると、払い戻しの手続きができないのだろうか…。名字が変わったって言ってしまったので、こういう場合はどうなってしまうのだろう…。
そしてこれでは
『受付の郵便局員から、こんなに長い時間待たされたお客』
という私の立場が一気に逆転して
『受付の郵便局員がこんなになって調べたのに、ハンコを忘れたバカ客。』
になっちゃわないか。
時計を見ると夕方4時近い…。
貯金部門はもう閉店時間が迫っているじゃないか。
よし、ここは
『もう閉店だから、記入書類だけもらって帰って出直しましょうね。』
と、こちらが気をきかせた路線でいこう。
戻ってきた郵便局員さんは
『口座振替はお客様が申し込みした郵便局支店で直接お手続きいただかないと、払い戻しできないそうです。名義変更ならうちでもできます。』
との回答。
えええ!!!Σ(゜□゜;
そうくるとは思わなかった。
結局、通帳はダメにするし(自分が悪いのだけど)、口座振替は何ともできなかったし、1銭も引き出せずに帰宅。
何しに行ったのだろう…我。
郵便局に行った時に、新婚旅行のお土産の東北限定『さくらんぼハイチュウ』を友人に郵送で送ったのだが、郵便局員さんに
「この封筒の中身は何ですか?」
と確認された。
「ハイチュウ」
「は?」
「ハイチュウ」
「は?」
「ハイチュウです。」
昨夜、新婚旅行から帰ってきた。
会社には今日まで特別休暇をもらっているので、私はあと一日のんびりできる。
さすがに長旅に疲れていたので、昨夜は布団に入ったらIphoneをお腹に乗せたまますぐに眠りについてしまった。
滅多に手に入らぬ本日の平日のフリーダムである。
まだ郵便局の通帳や振替口座などを名義変更していなかったので、今日一日でやるしかないと郵便局に行ってきた。
郵便局の入り口にATMがあったので、
「もう残高もたいして残ってないし、これで全額引き出しちゃおうか。」
と、いじっていたら暗証番号を3回間違えて使えなくなってしまった…。Σ(゜□゜;
おかしい、暗証番号を間違えるはずないのに!!!!
何かがおかしい!!陰謀が渦巻いている!!!
一方、振替口座については窓口に行って手続きするしかなく、
「この口座を新姓に名義変更して、振りこまれたお金を全額払い戻したいんですが。」と、
書類を見せたら、受付の女性は、どうすればいいのか分からないようで
「確認しますのでお待ちください。」
と書類を持って奥の部屋に入って行ってしまった。
…待つこと10分
受付の女性はなにか書籍を持ってきてペラペラめくって私の前で調べ始めたのに、また奥の部屋に行ってしまった。
…待つこと15-20分
受付の女性は電話の子機を首に挟んで話をしながら私の待つカウンターに戻ってきて、そしてまたグルリと奥の部屋に行ってしまった。
Σ(゜□゜;待たされすぎる!!!
と、こちらも気をもんでいた時に、ふと頭をよぎったこと。
『あ…。新姓のハンコ忘れた。』
やばい、あの女性が調べ終わって結論を持ってきても、私がハンコ忘れたのでもしかすると、払い戻しの手続きができないのだろうか…。名字が変わったって言ってしまったので、こういう場合はどうなってしまうのだろう…。
そしてこれでは
『受付の郵便局員から、こんなに長い時間待たされたお客』
という私の立場が一気に逆転して
『受付の郵便局員がこんなになって調べたのに、ハンコを忘れたバカ客。』
になっちゃわないか。
時計を見ると夕方4時近い…。
貯金部門はもう閉店時間が迫っているじゃないか。
よし、ここは
『もう閉店だから、記入書類だけもらって帰って出直しましょうね。』
と、こちらが気をきかせた路線でいこう。
戻ってきた郵便局員さんは
『口座振替はお客様が申し込みした郵便局支店で直接お手続きいただかないと、払い戻しできないそうです。名義変更ならうちでもできます。』
との回答。
えええ!!!Σ(゜□゜;
そうくるとは思わなかった。
結局、通帳はダメにするし(自分が悪いのだけど)、口座振替は何ともできなかったし、1銭も引き出せずに帰宅。
何しに行ったのだろう…我。
郵便局に行った時に、新婚旅行のお土産の東北限定『さくらんぼハイチュウ』を友人に郵送で送ったのだが、郵便局員さんに
「この封筒の中身は何ですか?」
と確認された。
「ハイチュウ」
「は?」
「ハイチュウ」
「は?」
「ハイチュウです。」
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今日の日程
秋田市内ホテル→秋田城跡→久保田城跡→秋田新幹線→宇都宮駅乗り換え→小山駅→小山市役所→小山市まちの駅「思季彩館」→東京駅→品川駅→羽田空港→福岡空港→自宅
秋田市内の宿で朝を迎え、秋田駅のコインロッカーに荷物を預けてからバス移動で古代の城・秋田城跡に行く。
織田秋田城介信忠!!!というネーミングでおなじみの秋田城である。
天正三年、織田信長が朝廷から右大将に任ぜられた時、嫡男の信忠も「秋田城介」に任じられた。
『秋田城介とは出羽国鎮守将軍のことで古来「三介」と言って、三浦介、上総介、秋田城介の名乗りが武家の名誉とされていた。』(『織田信長事典』)
そんな由緒ある、古代の城・秋田城に来ている。
城内は公園として整備されていて、発掘調査に基づいて門やトイレも復元されている。古代のウンコが見たいのに、トイレの中は開かなくて、便器がどう再現されているのかも見ることができなかった。
秋田城跡からの帰りに乗るつもりだったバスは時刻表より早めに来て、バス停の手間まで来ていた私達を華麗に置いて走って行った。少なくともこういう場合、九州のバスは時刻表通りの時間になるまで待ってくれるのだが、そのつもりでいて、旅行中、二度もバスに置いて行かれた。
次のバスを待ち、次は近くにある100名城のひとつ、久保田城跡に行った。
久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城だが、御隅櫓に設置されていたビデオ解説によると佐竹氏は
『他の大名のように膨大な費用をかけて石垣や天守を造ることの愚かさを知っていたので』
城に石垣や天守を造ってないという。
確かに久保田城は土で盛った城だった。故に、城内に入ると他の石垣の城のような迫ってくる迫力がなく、私が思った見どころは御隅櫓の入り口に飾ってあった初代・佐竹義宣の面頬フェイス銅板画だった。
そんな秋田県に別れを告げ、秋田駅から秋田新幹線に乗りこんだ。
宇都宮駅に向かう車中、途中から乗ってきた隣の席のおじさんがお酒臭くて気分が悪くなってしまい、席を外してトイレの前でぐったりしていると、乗務員さんが気づいて
「救急車を呼びましょうか?」
との事。うおー!
「そこまでないです、大丈夫です!」
と断ると
「では、車内の多目的室にベッドがあるのでしばらく横になってください。」
との事。
「ご案内しますから私の肩につかまってください。」
と言われて背後から乗務員さんの肩につかまって乗客のいる車両を抜けていると、なんか私達は2人で電車ごっこをしているようである。
乗務員さんも不自然に思ったのか
「手をつなぎましょう!」
に切り替わったけど、手をつないで歩くのも、なんか私が悪い事して連行している人に見えていたのではないだろうか。
結局、途中で吐き気が襲ってきて、乗務員さんを振り切ってトイレで吐いていた我。
乗務員さんが夫を呼んできてくれ、新幹線内の多目的室でしばらく休ませてもらって体調を回復させる。
栃木県の宇都宮駅乗り換えで、夫の「宇都宮駅の餃子ビーナス像が見たい!」をスルーして普通電車で小山駅に向かう。
ファイナル史跡は、
森忠政も居合わせた『小山評定』の舞台『小山(おやま)』である!
徳川家康が森忠政を含む多くの大名を従えて会津の上杉征伐に向かっていたのだが、そのスキをついて西の方では石田三成が打倒家康で挙兵した事が発覚。この小山の地で軍議を為して、(出来レース)で武将達は徳川側についてUターンして西に上り、石田三成を倒すと意志表明したのである。
そんな小山評定の地の小山であり、忠政はそこから徳川家康の東海道コースでなく、秀忠に従軍して中山道コースをたどり、上田城攻防戦を経て、上田の押さえに信州に置いていかれることになる。
森忠政:「え?じぶん、三成倒すぞチームには加えられないの?外されたの?・゜・(ノД`)・゜・。」
でおなじみの関ケ原不参戦への道をたどる小山である。
なお、石田三成を倒して武功を立てるチャンスをもらえないことに不安を感じた忠政が、何度も徳川秀忠に食い下がる書状が残っており、秀忠から「大丈夫だから。」となだめられている。
小山市役所に小山評定跡の石碑が建っていた。
偶然帰り道で見つけたまちの駅「思季彩館」では、森忠政の名も入った『小山評定手ぬぐい』を購入した。
実は同じ物を以前、お城仲間さんにいただいているんだけどね。
森忠政に浮かれて油断していたら、車椅子に乗ったお婆ちゃんに私のバッグをガッシリ握られていた。
よい細工のバッグを持ってると褒められた…半額セールで買った合皮バッグ…(^_^;)。
更に、奇遇にも7月7日と7月8日限定で小山市生涯学習センターで「小山評定甲冑展」という特別展が開催されていたので小山駅の隣のビルで近いということもあり寄ってみた。
一番感激したのは小山評定武将陶人形!小山評定の時の武将達が陶人形になって再現されていたのだ。
森忠政もいて、それはもう可愛らしい。よかった。来てよかった。
思いがけぬ収穫にホクホクしながら東京駅(ちょうど東京駅のあるところに昔は森忠政の江戸屋敷があったので、東京駅も私にとっては森度の高い場所。)を経て、羽田空港から福岡空港にひとっ飛び。
森度は低かったが最後の最後で森かえして、仲良く新婚旅行を満喫できてよかった。
秋田市内ホテル→秋田城跡→久保田城跡→秋田新幹線→宇都宮駅乗り換え→小山駅→小山市役所→小山市まちの駅「思季彩館」→東京駅→品川駅→羽田空港→福岡空港→自宅
秋田市内の宿で朝を迎え、秋田駅のコインロッカーに荷物を預けてからバス移動で古代の城・秋田城跡に行く。
織田秋田城介信忠!!!というネーミングでおなじみの秋田城である。
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秋田城跡 |
天正三年、織田信長が朝廷から右大将に任ぜられた時、嫡男の信忠も「秋田城介」に任じられた。
『秋田城介とは出羽国鎮守将軍のことで古来「三介」と言って、三浦介、上総介、秋田城介の名乗りが武家の名誉とされていた。』(『織田信長事典』)
そんな由緒ある、古代の城・秋田城に来ている。
城内は公園として整備されていて、発掘調査に基づいて門やトイレも復元されている。古代のウンコが見たいのに、トイレの中は開かなくて、便器がどう再現されているのかも見ることができなかった。
秋田城跡からの帰りに乗るつもりだったバスは時刻表より早めに来て、バス停の手間まで来ていた私達を華麗に置いて走って行った。少なくともこういう場合、九州のバスは時刻表通りの時間になるまで待ってくれるのだが、そのつもりでいて、旅行中、二度もバスに置いて行かれた。
次のバスを待ち、次は近くにある100名城のひとつ、久保田城跡に行った。
久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城だが、御隅櫓に設置されていたビデオ解説によると佐竹氏は
『他の大名のように膨大な費用をかけて石垣や天守を造ることの愚かさを知っていたので』
城に石垣や天守を造ってないという。
確かに久保田城は土で盛った城だった。故に、城内に入ると他の石垣の城のような迫ってくる迫力がなく、私が思った見どころは御隅櫓の入り口に飾ってあった初代・佐竹義宣の面頬フェイス銅板画だった。
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佐竹義宣 これはもう道を歩いているだけで威圧感! |
そんな秋田県に別れを告げ、秋田駅から秋田新幹線に乗りこんだ。
宇都宮駅に向かう車中、途中から乗ってきた隣の席のおじさんがお酒臭くて気分が悪くなってしまい、席を外してトイレの前でぐったりしていると、乗務員さんが気づいて
「救急車を呼びましょうか?」
との事。うおー!

「そこまでないです、大丈夫です!」
と断ると
「では、車内の多目的室にベッドがあるのでしばらく横になってください。」
との事。
「ご案内しますから私の肩につかまってください。」
と言われて背後から乗務員さんの肩につかまって乗客のいる車両を抜けていると、なんか私達は2人で電車ごっこをしているようである。
乗務員さんも不自然に思ったのか
「手をつなぎましょう!」
に切り替わったけど、手をつないで歩くのも、なんか私が悪い事して連行している人に見えていたのではないだろうか。
結局、途中で吐き気が襲ってきて、乗務員さんを振り切ってトイレで吐いていた我。
乗務員さんが夫を呼んできてくれ、新幹線内の多目的室でしばらく休ませてもらって体調を回復させる。
栃木県の宇都宮駅乗り換えで、夫の「宇都宮駅の餃子ビーナス像が見たい!」をスルーして普通電車で小山駅に向かう。
ファイナル史跡は、
森忠政も居合わせた『小山評定』の舞台『小山(おやま)』である!
徳川家康が森忠政を含む多くの大名を従えて会津の上杉征伐に向かっていたのだが、そのスキをついて西の方では石田三成が打倒家康で挙兵した事が発覚。この小山の地で軍議を為して、(出来レース)で武将達は徳川側についてUターンして西に上り、石田三成を倒すと意志表明したのである。
そんな小山評定の地の小山であり、忠政はそこから徳川家康の東海道コースでなく、秀忠に従軍して中山道コースをたどり、上田城攻防戦を経て、上田の押さえに信州に置いていかれることになる。
森忠政:「え?じぶん、三成倒すぞチームには加えられないの?外されたの?・゜・(ノД`)・゜・。」
でおなじみの関ケ原不参戦への道をたどる小山である。
なお、石田三成を倒して武功を立てるチャンスをもらえないことに不安を感じた忠政が、何度も徳川秀忠に食い下がる書状が残っており、秀忠から「大丈夫だから。」となだめられている。
小山市役所に小山評定跡の石碑が建っていた。
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史跡 小山評定跡 この隣の敷地には、後に徳川秀忠によって造られた小山御殿の跡がある。 |
偶然帰り道で見つけたまちの駅「思季彩館」では、森忠政の名も入った『小山評定手ぬぐい』を購入した。
実は同じ物を以前、お城仲間さんにいただいているんだけどね。
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小山評定手ぬぐい お城仲間さんにもらったものと、今回自分で 購入したもの。 |
森忠政に浮かれて油断していたら、車椅子に乗ったお婆ちゃんに私のバッグをガッシリ握られていた。
よい細工のバッグを持ってると褒められた…半額セールで買った合皮バッグ…(^_^;)。
更に、奇遇にも7月7日と7月8日限定で小山市生涯学習センターで「小山評定甲冑展」という特別展が開催されていたので小山駅の隣のビルで近いということもあり寄ってみた。
一番感激したのは小山評定武将陶人形!小山評定の時の武将達が陶人形になって再現されていたのだ。
森忠政もいて、それはもう可愛らしい。よかった。来てよかった。

|
森忠政公陶像 (水野宗 氏作) |
思いがけぬ収穫にホクホクしながら東京駅(ちょうど東京駅のあるところに昔は森忠政の江戸屋敷があったので、東京駅も私にとっては森度の高い場所。)を経て、羽田空港から福岡空港にひとっ飛び。
森度は低かったが最後の最後で森かえして、仲良く新婚旅行を満喫できてよかった。

八戸ホテル→櫛引八幡宮→根城跡→南部バス八戸営業所→弘前駅→革秀寺→小山内冷菓(アイスキャンデー)→弘前城跡→秋田駅→郷土料理「助六」→秋田市内ホテル泊
朝一番、バスに乗って櫛引八幡宮へ。
今日からレンタカー無しの行程なので、神社へもキャリーバッグをゴロゴロ引いての参拝である。
国宝になっている豪華絢爛な大鎧を見学した。
大鎧は撮影できなかったので、公式サイト紹介。→櫛引八幡宮
今日からレンタカー無しの行程なので、神社へもキャリーバッグをゴロゴロ引いての参拝である。
国宝になっている豪華絢爛な大鎧を見学した。
大鎧は撮影できなかったので、公式サイト紹介。→櫛引八幡宮
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櫛引八幡宮 |
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南部八戸名物・八幡駒の石像 境内にあった。 |
バスで折り返して、次の目的地の100名城のひとつ、根城跡へ移動する。
博物館前バス停でバスを降りた瞬間、夫が
「スマホがない。どこかに忘れた。」
と世にも不思議な事を言い始める。
夫からは、今までに
『ジョ●フルにケータイ忘れた。』
『電車の中にカバン忘れた。』
『財布忘れた。』
『切符売り場に100名城スタンプ帳忘れた。』
というバリエーョンを披露されたことがある。
『ジョ●フルにケータイ忘れた。』
『電車の中にカバン忘れた。』
『財布忘れた。』
『切符売り場に100名城スタンプ帳忘れた。』
というバリエーョンを披露されたことがある。
はるばる東北に来ているここで新技?!

そして更に
「今乗っていたバスを追ってくる!うききのスマホを貸しといてもらっていい?」
と、刑事さんのような事を言い始める。
どうやら私は、夫からライフラインをブッツリ断たれた上で見知らぬ土地に置いて行かれようとしている…。
森家の領地に放置プレイならともかく、ここは南部氏じゃないか…南部氏の家紋は鶴が向かい合わせで、おデコグリグリ腹グリグリだぞ。本当にそれでいいの?!
森家の領地に放置プレイならともかく、ここは南部氏じゃないか…南部氏の家紋は鶴が向かい合わせで、おデコグリグリ腹グリグリだぞ。本当にそれでいいの?!
このままでは夫とこのまま生き別れになる恐れがあるので、とりあえずはバスの営業所に連絡して乗っていたバスの路線を告げ、スマホの忘れ物がないか確認してもらう。
そのお返事の電話を待つ間に、夫と一緒に根城を見学できた。
動揺でそこまで堪能できなかったが、堀なども整備され、部分的に主殿や馬屋が再現されていて見ごたえがあったような気がする。
|
根城跡 南部氏のお城だったと思う。 |
|
根城城内にあった復元の主殿 |
|
馬屋にいたデスラー総督 |
やがてバス会社より
「スマホありました。営業所でお預かりしています。」
という電話があってひと安心。
タクシーに乗りこんで一緒にバス会社の八戸営業所に夫のスマホを受け取りに行く。
そのまま同じタクシーで八戸駅まで行き、弘前駅まで移動した。
弘前駅からバスに乗って津軽家の菩提寺の革秀寺に参拝。
津軽藩の藩祖・津軽為信の御霊屋に手を合わせた。
津軽藩の藩祖・津軽為信の御霊屋に手を合わせた。
|
津軽為信霊屋 二代目・為枚が京都から父の遺骨を持ち帰って弔った。 |
今日も暑い日だったので、革秀寺からの帰り路にあった手作りアイスの店・小山内冷菓店に立ち寄ってアイスキャンデーをウマウマ食べていると、バスに置いて行かれた。走ってバス停に向かう寸前の私達に気づいていたはずだろうに、置いて行かれた…。
仕方なくタクシーで移動、同じく100名城である弘前城跡を見学した。
桜の名所として有名な弘前城、水掘りが桜の花びらでいっぱいになった美しい画像を見たことがある。
もし機会があるなら今度は春に訪れてみたい。
|
弘前城の辰巳櫓? たぶん辰巳櫓 |
|
たか丸くん む。ゆるキャラの波は東北へも押し寄せていたのか。 |
ちょっと離れた場所(城外の文化センター)に隔離された状態で津軽為信の銅像が雄姿を見せていた
|
津軽為信の銅像 「たか丸」の頭部はこの兜から インスパイアされたものだろうか。 |
これで今日の史跡めぐりの日程を終えて、特急列車で秋田駅に移動した。
いよいよ明日が東北最後の日である。
|
秋田といえば「なまはげ」 さすがだ!!!ゆるくない!!! |
秋田駅そばで見つけたお店で秋田の郷土料理「きりたんぽ」や「稲庭うどん」を食べる。
「きりたんぽを焼いたヤツが食べたい。」と店員さんにリクエストして
「きりたんぽはもともと焼いてあるもので、それを鍋に入れたり味付けして食べるものなんですけど。」
と切り返されて繊細な私のハートが傷ついた。
|
きりたんぽ田楽 |
そんな今日は、森忠政公ご命日。
忘れてないよ。

平泉宿→中尊寺本堂→金色堂→弁慶の墓→高館・義経堂→藤原氏柳御所跡→太田代城跡→青篠城跡→菊池神社→胆沢城跡→盛岡城跡→山形市から電話→九戸城跡→青森県八戸泊
平泉のホテル泊。
震度2の地震で朝がきた。
今朝は早起きして、世界遺産の中尊寺へ詣でた。
夫の知人から得た情報では、世界遺産に登録されし今、もはや中尊寺は人の群れでごった返して有名な金色堂をゆっくりと見るのは容易ではなく、土日の休日参拝ではまず人の波にもみくちゃにされ、人ごみに流されて変わってゆく私を~♪あなたはときどき 遠くでしかって~♪ by 松任谷由美
人の波にもまれたあげくにそのまま流されて金色堂を満足に見ることができない状態になるという。
なんという恐ろしいところなんだ。奥州!!!
よって
『平日の朝イチを狙え!』
と、いう知人のアドバイスに従って、旅程を組む段階から平日の参拝になるように調整していた。
朝8時(開館30分前)には中尊寺の麓の町営駐車場に車を停めて、
「(金色堂のある)上のほうにも駐車場はあったのでは…。」
と言いつつ静かな月見坂の参道をワッセワッセと登ってゆく。
道すがらに存在する本堂や弁慶堂などにも参拝できたのでこれでよかったのだろう。
|
参道で出会ったネコさん |
開館前の宝物館・讃衡蔵(さんこうぞう)に到着した。
ここで金色堂との共通拝観券を買い求めるらしいけど、参拝者が私達の他に100人くらいはいるかも知れないと覚悟していた割には、あまりにも人がいなさすぎた。
トータル10人もいない。私がもみくちゃにされる予定だった人の波はどこだろう。平日だから人がこんなに少ないのか?
開館前に並んで待つ必要もないとわかったので、近くにある能舞台などを散策する。
どなたかが練習をしていたらしく、一帯にアヴェマリアとジュピターの笛の音が響いた。
ようやく会館時間になって、讃衡蔵を見学の後、金色堂へと進んだ。
当方、金色堂にはかなりの夢と期待を膨らませ過ぎていたため、実際のサイズが想像していたよりもはるかに小さいことにまず驚く。
しかも、金色堂はひとまわり大きな覆堂という現代コンクリ建造物にすっぽりと覆われている。
覆堂に設置された見学路から距離を隔てた金色堂をガラス越しに見るシステムだった…。
愚かにも私は金色堂そのものに入れるものと思っていた。
でもそうね。建物にはられた金箔をこそぎ取って持って帰る人も出るかもね。(^_^;)
|
中尊寺金色堂 金色堂をすっぽり覆う覆堂が見えている。 |
中尊寺を降りて、麓にある弁慶の墓にお参りした。
中尊寺より車でちょっと移動したところには、義経最期の場所に建てられた高館義経堂があり、非常に凛々しい義経像が安置されていた。日本きってのアイドル(森家は殿堂入りなので除く)が最期を迎えた地にしては狭くて(土地を川に削られたらしい)、寂しい場所だった。
|
高館義経堂 天和3(1683)年、仙台藩主・伊達綱村に よって建てられたとのこと |
平泉を訪問してあちこちに感嘆符を投げつける芭蕉先生が『奥の細道』に残した
『偖(さて)も義臣すぐつて此(この)城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる』
のくだりがなんかかっこよくて私はとても好きだ。
なお、この義経堂には芭蕉の有名は俳句のひとつ
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
の石碑が建てられていた。
せっかくなので道なりにあった柳之御所遺跡も見学した。
ここは奥州藤原氏の政治を行っていた場所と考えられているものらしく、整備されて建物跡やお堀などもちゃんとした形で見れた。
青い草が目に鮮やかで思わず気持ちよく飛びだしたら、昨日の雨で地面はズブズブだった罠。ああ、沈んでゆく…。
|
柳之御所遺跡 きれいに整備されている。 |
その後は、夫のリクエストで初夏の山に登った。
太田代城跡というのには頑張って山頂までついて行ったけど、次の青篠城跡というのには入口からしてヤブ化していて私には登るのが困難だったので、麓で夫を待っていた。これらの城は、夫が好きな菊池氏(南北朝時代くらいに頑張っていた肥後の武将)の分流が関係する城らしい。
青篠城跡の麓で出会った地元のおじいさんに、
「夫が菊池氏好きなんで…。」
と話していたら…ええと…方言でおじいさんの回答が2/3くらいしか聞きとれなかったものの、語りの全体的な雰囲気で想像するに、この近所にまさかの菊池神社があるらしく、夫が山を降りてくるのを待って案内してもらった。(^_^;)
それは、なんと菊池一族を祀る本家・菊池神社(熊本県菊池市)にお伺いを立てた上で個人の方が造営したプライベート神社であった!!!
高速道路に乗ってしまう前に、道なりにある胆沢城跡にもつい寄ってみた。
征夷大将軍・坂上田村麻呂が築いたとされるエミシ支配のための古代の城らしい(平地)。
時間の都合もあって、石碑あたりから城跡全体を見渡したのみで終了。
道路を走っていると、この地域にいたとされるエミシの「アテルイ」なる人物が建物の壁面に描かれていた。
|
胆沢城 |
そのまま場所を盛岡市に移して100名城のひとつ盛岡城跡を見学した。
色々な形状の石垣がどうも気になる。
|
盛岡城跡 |
車で移動をくり返し、二戸市にある九戸城跡を見学した。
豊臣秀吉の「奥州仕置」に関わる城で、城主・九戸氏は豊臣政権に逆らう者とみなされ、豊臣方のだまし討ちに遭って城兵とも皆殺しにされたとのこと。
その後は蒲生氏郷の手を経て南部氏の城となったそうだ。
|
九戸城跡 悲劇の城跡。実際に首をはねられた人骨が複数出てきたそうだ。 |
本日の宿泊先である青森県八戸市まで移動してレンタカーを返却。
青森の郷土料理が楽しめるという八戸屋台村に「蘭丸」というお店があったので、迷わずこのお店に入った。
|
八戸屋台村『蘭丸』 店名に魅かれて入ってしまったけど、どの 料理も美味しかった。 |
|
初めて口にしたホヤ ずっとこのまま食べるものだと思っていたら、赤い部分はガチガチの殻だったとは。 |
九州では味わえないホヤを初めて食べた。
サザエのようなコリコリ食感を想像していたらそうでもなかった。フニャリとして塩辛い。
青森名産の田子ニンニクの丸揚げも食べた。
全然臭くなくて、ついパクパクと食べる。ホクホクして美味しい。ちなみに明日より電車移動なり(^O^)/。
テーブル上に置いてあった目の前の小さな水槽で泳いでいた、ドジョウも揚げてもらい、さらにお客さんの差し入れのドリアンまで食べた。
〆はせんべい汁。汁にひたされたせんべいはモチモチして美味しかった。(^_^)
色々と飲み食いして満腹になった後には、ものすごい眠気が襲ってくる。
なのにホテルに戻ってTVをつけたら『千と千尋の神隠し』をやっていた。このままベッドで横になりたいのに、天は無常なり!!!Σ(゜□゜;
眠気を抑えながら、『千と千尋の神隠し』を結局、最後まで頑張って見てしまった罠。
本日の旅程
(山形県天童市内)天童城跡→将棋供養塔・人間将棋会場→建勲神社→三寶寺→将棋資料館→お土産買い物→サクランボ狩り
→(山形市内)山形城跡→東大手櫓特別公開→最上義光資料館→光禅寺→長可書状探し→平泉泊
山形県天童市内の旅館で朝を迎える。
将棋駒とフルーツで有名な天童市である。
そもそも将棋好きな夫と、サクランボ
と織田信長が好きな私との利害関係が『天童』をキーワードに一致したために、新婚旅行は東北とあいなったのである。
そういうことで、今日は新婚旅行の中でも最重要日といえよう。
朝はさっそく、私たちの見たいスポットが凝縮された舞鶴山に登り、天童城跡(雨天のため山頂までは登らず)を見て、同じ山にある人間将棋会場へ。ここには将棋供養塔とともに、地面に大きな将棋盤ラインが引かれている。(リアル人間を駒にしてここで将棋をするお祭りがある。)
そしてこれまた同じ舞鶴山にある建勲神社へお参りした。
天童織田家(信雄の系列)が織田信長をご祭神としてお祀りした神社がこの建勲神社。
建勲神社はこの他、京都・船岡山の建勲神社、兵庫・柏原の建勲神社と合わせて世界に三社しかない。
二社は既にお参りしていた私なので、これでついに建勲神社をすべてお参りしたことになる。(^O^)
コンプしたからと言って、ODAを引き出せる訳ではないがすごい充実感である。
生きているうちにお参りできてよかった。
本殿にあがらせていただくと、多種多様な織田信長の肖像画や織田家の木瓜紋の釣燈籠などがあってこの場に身を置くだけで幸せである。
続いて天童織田藩主の菩提寺・三寶寺へお参りした。
織田宗家の御霊屋『仰徳殿(昭和の再建)』には織田信長公を始め、代々藩主や家族のご位牌が安置されているとのこと。
三寶寺の本堂にあがらせていただくと、当時の宣教師が描いたという織田信長公の肖像画を拝観できた。
肖像画とともに『本能寺合戦』の絵も飾られていて、その絵には森蘭丸も描かれていたのだけど、どういったものかという詳細がわからなかった。
しかし、森度の低いこの東北で森家に出会えると、とても嬉しくなってくる。
その後は夫リクエストの天童市将棋資料館へ。
将棋の資料とともに織田信長の肖像画がこの資料館にまでかかっていた。
天童の将棋駒は、そもそも天童織田家が(19世紀だけど)家臣に「将棋駒」作りを内職として奨励したことに始まるという。
そうだったなりか!!!
なお、変わり将棋の紹介コーナーでは、”織田信長と明智光秀”将棋(勝手に命名)なるものもあった。
その後は隣のビルの天童市物産センターで”飾り駒”を含めてお土産を買い、次はいよいよ私の子供のころからの夢を果たしにさくらんぼ園に移動。馬鹿みたいに2人そろって赤い服で行った。
自分の好きなサクランボの木に登って、夢の40分食べ放題ターイム!!!!(^O^)/
目に着く赤いサクランボを好きなだけ取っては食べ、取っては食べ、時には違う種族のサクランボ族を取って食べくらべする。
「私の身体はサクランボでできているの。」
と言えるほど体内がサクランボで充満していた。首のところまでサクランボがきていた気がする。
至福のひとときであった。
なんだか画像をもう一度貼っておくことにする。
サクランボをお腹いっぱい食べた後は、山形市内に移動した。
この頃には天気もすっかりよくなり、暑すぎるくらい(実際には、この後も青空になったり激しい雨になったりを小刻みにくり返す天気だった)。
山形城跡を見学し、東大手門櫓特別公開があっていたのでそちらも覗いてみた。
しかし、そこで悲劇は起こった…。
城内の最上義光騎馬像を撮影中、
なぜだかわからないが、激しい腹痛が襲ってきたのである!!!!
第一波、第二波と、容赦なく襲ってくる腹痛!!!!
誰も私に触れないで!!!!Σ(>□<;
以降、夜までお腹を壊しての移動となる。
そんな私に、東大手門櫓のボランティア解説の方がサクランボを1個くれた。
ああ…大好きなサクランボなのになぜか食べられない…。
哀しみもだえる中、続いて訪問した最上義光資料館で森家の奇跡が起こったのである。
最上義光に関する展示を見終えた後、ラックに並んでいた過去の図録を見ていたら、
『最上義光歴史館増築記念特別企画展 戦国武将墨跡展 図録』
に森長可の知行状の写真があった。
誰でもそうなのだろうが、好きな物と嫌いな物は、真っ先に目に飛びこんでくるのである。
多くの武将の中に、芳しき彼の名があったのをアタイは見逃さなかった。
なお、この長可の知行状は”窪嶋日向”宛てである。
内容は文字のみで知っていたけど、現物がちゃんとあるんだ!!!!
そして、所在はなんと山形市内である。
(ご迷惑がかかることがないように、以下、オブラートに包んで記述してみる。)
森家ストーカーの血が騒ぎ、気づけば夫に細かい説明をする前に所有者のところに電話をかけて
「見せてください。」
と言っていた。
ど厚かましすぎるし、失礼は重々承知の上である。生まれてすみません。
電話に出られたのはお店で働いていらっしゃる方で、ご主人が不在とのことで断られた。
これはいきなり失礼なことをお願いした私が悪いので当然である。しかたがない。
今回は諦めて従来の順序に戻り、最上氏の菩提寺・光禅寺へ向かう。
ああ、でも、本当は諦められない!!!
森家のロマンスの神サマ!!!
車で移動中に私のアイフォーンに電話がかかってきた。
それはさっき私が電話したお店からだった。
電話記録から、私の番号へとリダイヤルしてみてくださったようだ。
「保管先が判らないけれど探してみます。ご縁がありましたら、またお電話します。」
とのこと。
なんてお優しいんだ!!!!何度も何度もお礼を述べて電話を切る。
しかし、私達の山形市内の滞在リミットは刻一刻と近づいているし、きちんと正体を見せてご挨拶しておきたいので所有者の元に赴いた。
いや、結局は何よりも自分がそわそわしてしまい、赴かずにいられないのである。
訪問してみると、
「頑張って探しましたけど森長可の知行状は見つかりませんでした…。」
とのお答えだった。
先代が亡くなって、所蔵品を整理しながら何がどこにあるのかを確認している状況なのでまだ森長可の物に関しては把握できてないとのことで、その他の貴重な仏像などをお見せいただいた。
そしてこの先いつか森長可の知行状が見つかることがあったら、私に連絡をくださるとのことだった。
森長可の書状が拝めなかったのは非常に残念ながら、何よりも見知らぬ私の不躾なお願いに対してここまで親切に対応していただけた事が大変ありがたかった。
福岡に帰って山県県民に出会ったら私もこんな風に親切にして森長可の何かを見せてあげよう。
森長可記念にそのお店で自分用のお土産にと、伽羅のお香を買って帰った。
またいつか、ご縁があれば、そしていつか森長可の書状が見つかれば、またこの地へ足を運びたい____。
(そして「見つかりましたよ。」の電話が、この翌日にあった罠。)
東北自動車道を走って、岩手県平泉の宿に到着。
この頃には行く道をかき消すような大雨が降っていた。私の涙なのかもしれない。
それでも明日の天気予報は「晴れ」なのである。
(山形県天童市内)天童城跡→将棋供養塔・人間将棋会場→建勲神社→三寶寺→将棋資料館→お土産買い物→サクランボ狩り

山形県天童市内の旅館で朝を迎える。
将棋駒とフルーツで有名な天童市である。
そもそも将棋好きな夫と、サクランボ

そういうことで、今日は新婚旅行の中でも最重要日といえよう。
朝はさっそく、私たちの見たいスポットが凝縮された舞鶴山に登り、天童城跡(雨天のため山頂までは登らず)を見て、同じ山にある人間将棋会場へ。ここには将棋供養塔とともに、地面に大きな将棋盤ラインが引かれている。(リアル人間を駒にしてここで将棋をするお祭りがある。)
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人間将棋会場 伏見城で豊臣秀吉が小姓と腰元を駒に仕立て、秀次と一緒に人間将棋をした逸話にインスパイアされたものらしい。 |
そしてこれまた同じ舞鶴山にある建勲神社へお参りした。
天童織田家(信雄の系列)が織田信長をご祭神としてお祀りした神社がこの建勲神社。
建勲神社はこの他、京都・船岡山の建勲神社、兵庫・柏原の建勲神社と合わせて世界に三社しかない。
二社は既にお参りしていた私なので、これでついに建勲神社をすべてお参りしたことになる。(^O^)
コンプしたからと言って、ODAを引き出せる訳ではないがすごい充実感である。
生きているうちにお参りできてよかった。
本殿にあがらせていただくと、多種多様な織田信長の肖像画や織田家の木瓜紋の釣燈籠などがあってこの場に身を置くだけで幸せである。
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建勲神社 織田信長公が御祭神。 |
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建勲神社ご朱印 |
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将棋の天童らしい「天下布武」の駒。 成りは木瓜紋。 |
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神社ののぼり |
続いて天童織田藩主の菩提寺・三寶寺へお参りした。
織田宗家の御霊屋『仰徳殿(昭和の再建)』には織田信長公を始め、代々藩主や家族のご位牌が安置されているとのこと。
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三寶寺 仰徳殿 ウォーターフロントの御霊屋。 |
三寶寺の本堂にあがらせていただくと、当時の宣教師が描いたという織田信長公の肖像画を拝観できた。
肖像画とともに『本能寺合戦』の絵も飾られていて、その絵には森蘭丸も描かれていたのだけど、どういったものかという詳細がわからなかった。
しかし、森度の低いこの東北で森家に出会えると、とても嬉しくなってくる。
その後は夫リクエストの天童市将棋資料館へ。
将棋の資料とともに織田信長の肖像画がこの資料館にまでかかっていた。
天童の将棋駒は、そもそも天童織田家が(19世紀だけど)家臣に「将棋駒」作りを内職として奨励したことに始まるという。
そうだったなりか!!!
なお、変わり将棋の紹介コーナーでは、”織田信長と明智光秀”将棋(勝手に命名)なるものもあった。
その後は隣のビルの天童市物産センターで”飾り駒”を含めてお土産を買い、次はいよいよ私の子供のころからの夢を果たしにさくらんぼ園に移動。馬鹿みたいに2人そろって赤い服で行った。
自分の好きなサクランボの木に登って、夢の40分食べ放題ターイム!!!!(^O^)/
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サクランボ狩り |
目に着く赤いサクランボを好きなだけ取っては食べ、取っては食べ、時には違う種族のサクランボ族を取って食べくらべする。
「私の身体はサクランボでできているの。」
と言えるほど体内がサクランボで充満していた。首のところまでサクランボがきていた気がする。
至福のひとときであった。
なんだか画像をもう一度貼っておくことにする。
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夢にまでみたサクランボ狩り!!! |
サクランボをお腹いっぱい食べた後は、山形市内に移動した。
この頃には天気もすっかりよくなり、暑すぎるくらい(実際には、この後も青空になったり激しい雨になったりを小刻みにくり返す天気だった)。
山形城跡を見学し、東大手門櫓特別公開があっていたのでそちらも覗いてみた。
しかし、そこで悲劇は起こった…。
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山形城跡(南門だったと思う) |
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山形城跡本丸の石垣 |
城内の最上義光騎馬像を撮影中、
なぜだかわからないが、激しい腹痛が襲ってきたのである!!!!
第一波、第二波と、容赦なく襲ってくる腹痛!!!!
誰も私に触れないで!!!!Σ(>□<;
以降、夜までお腹を壊しての移動となる。
そんな私に、東大手門櫓のボランティア解説の方がサクランボを1個くれた。
ああ…大好きなサクランボなのになぜか食べられない…。
哀しみもだえる中、続いて訪問した最上義光資料館で森家の奇跡が起こったのである。
最上義光に関する展示を見終えた後、ラックに並んでいた過去の図録を見ていたら、
『最上義光歴史館増築記念特別企画展 戦国武将墨跡展 図録』
に森長可の知行状の写真があった。
誰でもそうなのだろうが、好きな物と嫌いな物は、真っ先に目に飛びこんでくるのである。
多くの武将の中に、芳しき彼の名があったのをアタイは見逃さなかった。
なお、この長可の知行状は”窪嶋日向”宛てである。
内容は文字のみで知っていたけど、現物がちゃんとあるんだ!!!!
そして、所在はなんと山形市内である。
(ご迷惑がかかることがないように、以下、オブラートに包んで記述してみる。)
森家ストーカーの血が騒ぎ、気づけば夫に細かい説明をする前に所有者のところに電話をかけて
「見せてください。」
と言っていた。
ど厚かましすぎるし、失礼は重々承知の上である。生まれてすみません。
電話に出られたのはお店で働いていらっしゃる方で、ご主人が不在とのことで断られた。
これはいきなり失礼なことをお願いした私が悪いので当然である。しかたがない。
今回は諦めて従来の順序に戻り、最上氏の菩提寺・光禅寺へ向かう。
ああ、でも、本当は諦められない!!!
森家のロマンスの神サマ!!!
|
光禅寺・最上義光のお墓 |
車で移動中に私のアイフォーンに電話がかかってきた。
それはさっき私が電話したお店からだった。
電話記録から、私の番号へとリダイヤルしてみてくださったようだ。
「保管先が判らないけれど探してみます。ご縁がありましたら、またお電話します。」
とのこと。
なんてお優しいんだ!!!!何度も何度もお礼を述べて電話を切る。
しかし、私達の山形市内の滞在リミットは刻一刻と近づいているし、きちんと正体を見せてご挨拶しておきたいので所有者の元に赴いた。
いや、結局は何よりも自分がそわそわしてしまい、赴かずにいられないのである。
訪問してみると、
「頑張って探しましたけど森長可の知行状は見つかりませんでした…。」
とのお答えだった。
先代が亡くなって、所蔵品を整理しながら何がどこにあるのかを確認している状況なのでまだ森長可の物に関しては把握できてないとのことで、その他の貴重な仏像などをお見せいただいた。
そしてこの先いつか森長可の知行状が見つかることがあったら、私に連絡をくださるとのことだった。
森長可の書状が拝めなかったのは非常に残念ながら、何よりも見知らぬ私の不躾なお願いに対してここまで親切に対応していただけた事が大変ありがたかった。
福岡に帰って山県県民に出会ったら私もこんな風に親切にして森長可の何かを見せてあげよう。
森長可記念にそのお店で自分用のお土産にと、伽羅のお香を買って帰った。
またいつか、ご縁があれば、そしていつか森長可の書状が見つかれば、またこの地へ足を運びたい____。
(そして「見つかりましたよ。」の電話が、この翌日にあった罠。)
東北自動車道を走って、岩手県平泉の宿に到着。
この頃には行く道をかき消すような大雨が降っていた。私の涙なのかもしれない。
それでも明日の天気予報は「晴れ」なのである。